「失望に終わらない希望」ローマ5:1-5
大会が終わり、任命を受けて、教会に遣わされ、今年は、4月17目に受難週を迎え、20日にイースター礼拝をもち、午後には墓前礼拝をもって、復活の希望にあふれ、召天された教会員の1周年記念会を持ち、あっという問に4月が終わろうとしています。大会では早天の司会を予定していましたが、熱が出て、休ませてもらいました。いろいろとご迷惑をかけてしまいましたが、次の日には熱も引いて、病院で感染症にかかっていないことを確認していただきました。祈っていただきありがとうございました。この紙面をお借りしてお礼を申し上げます。
2月に巻頭言依頼のお話をいただきました。2月3日の立春を迎えた後でした。暦の上では、春の始まりとされる日です。そのころに、春一番の発表があったり、3月並みの気温になった地域もありました。ところが、天気が変わり、大雪で被害が出た地域があったり、非常に強い寒気が日本を張り巡らして、寒さが戻りました。それでも、立春を過ぎていましたから、寒い冬ももうすぐ終わりだと希望をもつことができました。また梅が咲いているのを見たりして、冬の寒い日と違って、春を迎える寒さだと思って、楽しい気分で過ごすこともできました。希望を持つということは、大きな力になると思います。苦しみや悲しみ、辛いことも、耐え忍ぶ力となります。
ところが、パウロが、ローマ教会に語っていることばでは、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた贔性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」と語っています。苦しみの中で希望を持ち、忍耐するというのではなく、苦しみによって忍耐が生み出され、忍耐によって練られた品性が生み出され、練られた品性によって希望が生み出されるというのです。
では、苦難をどのようにして耐え忍ぶのでしょうか。ローマ教会への手紙で、パウロが語っていることばを見てますと、「苦難さえも喜んでいます」と言っています。苦難を喜ぶというのです。この苦難は、イエス・キリストを信じて、クリスチャンとして生活する中での苦難であり、信仰をもっているための苦しみです。でも、その苦難は、神との平和を持っているから、喜びの中で苫難を耐えることができます。
ローマ教会への手紙で、一章から四章で、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるということを語ってきました。聖書が示すとおりに、イエス・キリストは、過ぎ越しの祭りの時に十字架にかかり、死んで葬られ、そして、初穂の祭りの日に復活されました。イエス・キリストによって、私たちは、すべての罪が赦され、罪のないものとされました。つまり、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持ち、私たちと神との関係は、敵対するものではなく、神が味方となる関係となりました。神と平和的な関係になり、(エレミヤ29:11)神が私たちのために立てている計画は、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ、と知ることができます。そして、(ローマ8:28)私たちに対する神の計画は、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。すべての罪が赦され、神の子とされ、さらに私たちの内に聖霊なる神が共におられる私たちのために、すべて良いもので満たしてくださらないはずがないとわかっています。ですから、神との平和を持っている私たちは、苦難の中でさえも喜ぶことができます。
私たちは、滅びるものではなく、神の国を相続するものであり、再臨されるイエス様の御前に携えあげられるものとされ、神の栄光にあずかる望みを喜ぶ喜びがあります。その喜びの中で、私たちが受けている苫難は、ただの苦しみではなく、クリスチャンであるが故の苫しみであり、神の栄光にあずかるための必要な苫難であることを教えられています。(詩篇119:71)苦しみを通される中で、私たちは、神との関係を深める恵みの時となり、神の栄光にあずかるものとしてふさわしく整えられる恵みの時となることを知り、喜びをもつことができます。
イエス・キリストを信じて義とされ、神との平和を与えられ、神の私たちへの計画を知り、その中で苦しみさえも喜ぶものとなり、忍耐が生じ、ますます神との関係が深くなり、神に近づく中でキリストの姿に変えられ、ますます神への希望があふれるようになり、そしてますます神との平和な関係とされていることの喜びにあふれ、神の栄光の望みに溢れ、ますます忍耐が生じ、ますます再臨されるキリストにふさわしく整えられ、と無限ループとなります。
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ5:13)
豊橋・名古屋・扶桑教会 川津 良知